こんにちは。大広の梅田です。
それでは今回は、「プロサンプション活動を起こす文化/土壌について」(中央集権的な存在の有無による違い)に触れていきます。
尚、議論の前提ですが、
人間は、社会的地位のために競争しようという生まれながらの衝動がある。
(Eric S. Raymond 著 山形浩生 YAMAGATA Hiroo 訳「ノウアスフィアの開墾」 6 贈与経済としてのハッカー文化 より)
ということを常に念頭に置いていきます。そして、「中央集権の有無」によって、その競争ゲームのルールが全く変わってくることを整理していきます。
まず、「中央集権アリ」の場合です。この“中央集権”は「希少財」を牛耳るものと(ここでは)定義します。言い換えると「希少財だからこそ“中央集権”の存在意義がある」ということです。
この「中央集権システム」は2つの経済ルール(であり社会的地位の競争ルール)が組み合わさって成り立っています。
1つ目は「上意下達方式」ですが、ここでは2つ目と揃える意味で「配給経済」と言い直しておきます。この「配給経済」は希少財を1つの中央権力が牛耳っている状態です。ただしこの経済は規模が大きくなると非効率になるため、より大きな2つ目の経済ルールに“寄生”する存在(例えば政府、軍、ギャング集団など)となります。
そして、その2つ目が「交換経済」です(いわゆる市場資本主義経済と言ってもいいかも知れません)。この「交換経済」は希少財を「交換する者の自発的な協力」によって配分していきます。つまりこの「『交換する者の自発的な協力』に任せるというルール」自体が“中央集権”となります。そしてこの巨大な「交換経済」に「配給経済」が寄生(交換経済と配給経済それぞれの有力者が癒着している状態)した総体が、上記の「中央集権システム」の全体像であり、「希少財」をコントロールしています。
さて次に、「中央集権ナシ」の場合です。この場合の人々がやりとりする対象は「希少財」ではなく「過剰財」です。ここが一番のポイントで、つまり「過剰財」ではもはや“中央集権”の存在意義がなくなってしまいます。ですので、むしろ「『過剰財』を扱う経済ゲームにおいては“中央集権”というプレイヤーは(機能しないので)退場せざるを得ない」と言った方が分かりやすいかも知れません。
この「過剰財」ですが、「生存に必要だが不足することがない財」であり、これを扱う経済ゲームが「贈与文化」です。ここでは「贈与経済」と言い直しておきます。
「贈与経済」は文字通り、財を他者に贈与する経済ゲームであり、ゲームの目的はもちろん社会的地位獲得ですが、その競争軸が「評判」となります。つまり、どれだけ価値のあるものを贈与できるかどうかで、周囲から獲得できる評判のレベルが変わってくる、ということですね。
まとめると、中央集権が意味を成さない「過剰財」を扱うフィールドにおいて社会的地位を争う経済ゲームは、「贈与経済」であり「評判ゲーム」である、そして、その評判を獲得することがモチベーションとなり、プロサンプション活動(=消費者が生産的価値を贈与する活動)が起こる、ということになります。
次回も、この流れに沿って、「そのような評判を獲得するモチベーションの構造」についてもう少し詳しく見ていきます。
※今回の考察は以下の引用箇所を参考としました。今回は逐次抜粋箇所を提示すると分かりづらくなると判断したので、まとめた形で参考箇所を提示いたします。
人間が持つ組織化のほとんどの方法は、希少性と欲求に対する適応行動だ。それぞれの方法は、社会的地位を獲得する別々の手段を持っている。
一番簡単な方法は 上意下達方式(command hierarchy)だ。上意下達方式では、稀少な財の配分は一つの中央権力が行って、それが軍事力でバックアップされる。上意下達方式は、規模の変化への適応力(スケーラビリティ)がものすごくとぼしい。大きくなるにつれて、ますます横暴で非効率になってゆく。このため、大家族以上の上意下達方式はほぼかならずといっていいほど、別のかたちのもっと大きな経済に寄生する存在でしかない。上意下達方式では、社会的地位はおもに恐喝力へのアクセス能力によって決まってくる。
ぼくたちの社会はもっぱら交換経済だ。これは財の希少性に対する洗練された適応方式で、規模の変化にもよく適応する。稀少な財の配分は、交換と自発的な協力によって非中心的に行われる(そして実は、競争の欲望がもたらす最大の効果は協力行動を生み出すことだ)。交換経済では、社会的地位はおもにもの(必ずしも物質的なものとは限らない)のコントロールの大小で決まる。
ほとんどの人は、この二つについては説明されるまでもなく精神的なモデルを持っているし、それらがどう相互に機能するかもわかっている。政府や軍、ギャング集団などは、ぼくたちが「自由市場」とよぶもっと大きな交換経済に寄生している上意下達システムだ。しかしながら、このどちらともまったくちがっていて、人類学者たち以外はあまり認知されていない第三のモデルがあるんだ。これが贈与の文化だ。
贈与文化は、希少性ではなく過剰への適応だ。それは生存に不可欠な財について、物質的な欠乏があまり起きない社会で生じる。穏和な気候と豊富な食料を持った経済圏の原住民の間には、贈与経済が見られる。ぼくたち自身の社会でも、一部の層では観察される。たとえばショービジネスや大金持ちの間でだ。
過剰は上意下達関係を維持困難にして、交換による関係をほとんど無意味なゲームにしてしまう。贈与の文化では、社会的なステータスはその人がなにをコントロールしているかではなく、その人がなにをあげてしまうかで決まる。
(中略)そしてハッカーたちは、長時間の労力をそそいで、高品質のオープンソース・ソフトをつくる。
というのも、こうして検討すると、オープンソース・ハッカーたちの社会がまさに贈与文化であるのは明らかだからだ。そのなかでは「生存に関わる必需品」――つまりディスク領域、ネットワーク帯域、計算能力など――が深刻に不足するようなことはない。ソフトは自由に共有される。この豊富さが産み出すのは、競争的な成功の尺度として唯一ありえるのが仲間内の評判だという状況だ。
(Eric S. Raymond 著 山形浩生 YAMAGATA Hiroo 訳「ノウアスフィアの開墾」 6 贈与経済としてのハッカー文化 より)